大都会の小さな家

大都会の小さな中古マンションに住むおひとりさま女の日常をつづったブログです。 注意事項: 比較的、自分の好き嫌いをはっきり述べています。 それは、単なるさくらねこの好き嫌いであって、さくらねこが嫌いな場合であっても、そのこと・ものを否定しているのでも、そのこと・ものを好きな方を否定しているのでもないことを、あらかじめ申し上げます。1記事が長めなので閲覧はPC推奨です。 リンクはご自由に、相互リンクも募集中です!

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少し前の記事で、日本はいくつか例外はあるものの、他国から奪われず・他国から奪わずでその歴史を紡いできたと、書きました。

日本は、(実質はどうあれ)1600年以上の長きにわたって、一つの王家が立って存続している、稀有な国だと思います。
(念のため、天皇は万世一系の現人神で日本は神国、だなんていう気は全くありません。)

しかし天皇がいて、各時代の実際の政権担当者が「天皇をトップとして立てて、自分はナンバーツーとして実権を握ろう」というコンセンサスを持っていたことが、他の国にあるような「血で血を洗う王朝交代劇」を産まなかったことは確かなことです。

それが、日本が小国家が乱立してお互いに争ったり、あるいは統一勢力があってもその中で王位を争って一族が争い、あるいは外戚や重臣が簒奪するなど王朝がどんどん交代する不安定な国家とならなかった大きな要因で、それが欧米の植民地支配をうけなかった大きな要因でもあったと思うのです。


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そもそも日本人は、まだ天皇もなく日本人という言葉もない時代、卑弥呼を頂いた倭人のころから、「トップがお飾りで、ナンバーツーが実権を握るスタイルが安定する」タイプだったのです。
卑弥呼がトップ、女王だったけれど、実際の政治は卑弥呼の弟が行っていました。

卑弥呼の没後、男の王が立って政治を取ったら、我も我もと権力をめぐって争ったので、卑弥呼の親戚の13歳の少女壱与を女王にして立てたら戦乱が収まったとあります。
13歳の女の子が実際の政権を握ったとは思わないので、卑弥呼の時代のように、誰か大人の男性が摂政となり実際の政治を担ったのだと思います。

逆に、天皇の時代であっても、天皇が権力を持っていた古代では、例えば雄略天皇などは即位後、親戚を疑って皆殺しにしてしまいました。(なのでそののちほどなく血統が絶え、六代前の天皇からの分家だとかいうほとんど他人の継体天皇などを呼び寄せざるをえなくなりました。)

天武天皇も、先代の天智天皇の息子の大友皇子を殺して即位しました。

・・・ところが、奈良時代から平安時代に移り、時代が下るにつれて、「ライバルをぶっ殺して即位」「即位したものの自分を脅かしそうな身内も皆殺しにする」というのはなくなっていきます。

たとえば「伊予親王の変」は、平城天皇の異母弟伊予親王は、平城天皇より出来が良く、父である桓武天皇に愛されていたので・・・「謀反を起こそうとしている」とでっちあげられ、母と服毒して自害、伊予親王派の重臣が流罪になったという事件なのですが、「目障りな二人のみ追い詰めて自害させ、残りは流罪」にとどまっています。
これが、たとえば中国だと、親戚や関係者一同を皆殺し・・・になることがあまりにも多いのです。

それに続けて発生した「藤原薬子の変」でも、嵯峨天皇(平城天皇の同母弟、伊予親王の異母兄)が、上皇となった平城天皇が政権に口出しするのを嵯峨天皇が食い止めた事件ですが、平城上皇は剃髪して出家、薬子が自害、そのほかは左遷・流罪で終わっています。
やはりこれが中国であれば、平城上皇は殺されてもしかたがないし、その関係者一同皆殺しになっていたでしょう。
上皇は、殺されるどころか、太政天皇の称号はそのままで、生活も保証された状態でそれから20年も生活し、息子も東宮からは降ろされましたが皇族としては認められていました。

さらに時代が下って、たとえば三条天皇の皇子だった敦明親王の場合、東宮位を自ら降りたことで、道長から厚遇を受けています。
紫式部が活躍した時代の天皇、一条天皇の中宮で道長の娘の彰子が産んだ後一条天皇の次が、敦明親王だったのですが、道長は当然、孫の後一条がつくるであろう息子に跡を継がせたかったのです。
この時代の天皇の継承は複雑で、三条天皇は別に一条天皇の息子ではなく、従兄で、一条天皇より年上だったのです。
三条天皇は道長に、退位して天皇の地位を後一条に譲れと迫り、三条天皇はではその代わりに後一条の後に自分の息子の敦明を東宮にするように言っていたのです。

せっかくお父さんの三条天皇が天皇を継げるように配慮したのですが、敦明親王は、後一条天皇よりかなり年上で、即位できたとしてもかなり年になってからで、それまで道長にいびられ続けるよりはと退位したのです。
道長も、敦明親王に院号を許し(つまり天皇になっていないが退位した天皇である院扱いをしている)、いろいろ破格の待遇を許しています。

・・・つまり自分の邪魔にならなければ、殺したりしないし、むしろ良い生活を許したりすらするということです。

これもたとえば中国ではあまりないことで、位を譲ったあと殺されるなんていうのは日常茶飯なことでした。(三国志だと、たとえば曹丕は漢の献帝から禅譲をうけ、献帝を山陽公として丁重に扱い、領土を与え、魏の皇帝に臣下の礼を取らなくて良いようにしていますし、のちに魏に降伏した劉禅や晋に降伏した呉の孫晧もそれぞれ侯としてそれ相応の処遇を受けていますが、これは珍しい例に思えます。少なくともその後の中国の歴史では、禅譲させられた前王朝の君主がほどなく殺される例のほうが多いです。)

位を譲っても自分の身と生活が保障されるのであれば、あえて争う必要もないのです。


自分自身が権力者で、かつ権力を実力で勝ち取る、たとえば古代の雄略天皇や天武天皇のような天皇が続けば、おそらく「身内のライバルは蹴落とす」の姿勢だったでしょう。

しかし、日本の天皇制は、かつての卑弥呼と弟といった「権威を持つトップ」と「それを補佐する実質的な支配者であるナンバーツー」という形をとっていきました。

ナンバーツーは、自分の一番都合のいい人物を天皇にしようとしますが、そこから排除された人物も皇室の一族であれば粗略にはできないのです。
自分の身内を疑って殺していくのに比べると、はるかに長持ちするでしょう。

後一条天皇の誕生で「かけたところのない満月のようだ」と自分の幸運を歌った道長ですが、後一条天皇には子供ができず、その弟である後朱雀天皇はなんとか藤原家の娘が産んだ息子後冷泉天皇を得ましたが、後冷泉天皇にはついに子供ができず・・・その異母弟の後三条天皇が継ぐことになります。

後三条天皇は・・・祖父が、道長の専横に追われた悲運の帝、三条天皇なのです。
三条天皇の娘が、後朱雀天皇の后の一人であり、藤原家の娘が男子を産まなかったため、170年ぶりの「藤原氏が外戚でない」天皇となりました。

これは、藤原氏にとっては不運ではありましたが、「自分に都合の悪い一族は抹殺」といったことをしなかったために、天皇家としては存続できたのです。

ここから時代は、摂関政治から院政へと転換しますが、その後の日本の歴史はおおむね「お飾りの天皇」と「それを補佐する立場で、実質的な最高権力者であるナンバーツー」の政治であるといえます。
(たまに、天皇に実権を取り戻そうとした後鳥羽天皇や後醍醐天皇のような人もいましたが、うまくいきませんでした。)

政権は移りながらも「権威は天皇にあり、実際の政権はそれを立てるかたちで存在する」という無言のコンセンサスが、日本の歴史を安定させてきた面は否めないと思っています。






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